先送りと時間割引

執筆者:石黒格(元心理学科教員・立教大学教授)
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 やらなければいけない課題なのに、なかなか手がつけられない。他にすることもあるし……そんなこんなで毎日を過ごし、気がつけば、締め切りはすぐそこ。真っ青になっても時すでに遅い。できるのは泣きながら徹夜することだけ。

 似たような経験がある人は、いくらでもいるでしょう。典型的なのは、夏休みの宿題。だいたい最後の週、ひどければ最終日にやるものだったはずです。

 ありふれた出来事ではありますが、よくよく考えれば不思議な話です。やらなければいけないことはわかっているのに、どうしてやれないのでしょう。毎日少しずつやるほうが楽なのは、それまでの経験でわかっているはずなのに。ゲームを少し進めるより、ずっと大事なのに。

 こんな事態を招く理由の1つに、ヒトが物事の価値やインパクトを見積もるときに、時間という要素を考慮することがあります。時間的に遠い未来に起きる出来事の価値やインパクトは、遠いほど小さく見えてしまうのです。この現象を、時間割引と呼びます。

 時間割引が恐ろしいのは、時間と価値やインパクトの関係が正比例ではなく、反比例なことです。出来事が少しでも未来になると価値やインパクトは急激に小さく見積もられます。私たちは目の前にある些細なことが大切に(少なくとも本来の価値には)見える一方で、少し未来のことは重要に感じにくくできているのです。そのため、「同時に並べられれば迷うことなくこれを選ぶ!」はずなのに、目の前にある、別の選択肢が魅力的に見えてしまう状況が発生してしまうのです。夏休みの宿題になかなか取りかかれないのは、それが(子供心には)はるか先にあるからです。もちろん、成長してもたいして変わりません。ご存じのように、受験も、仕事も、筋トレも、ダイエットも、どれも締め切りが先にあるなら同じことが起きています。

 時間割引は生物全般に広く共有されていると言われており、私たちの心理に深く根ざしています。ですので、意志の力で抵抗するのはなかなか困難です。しかし、対処法はあります。ここでは2つ紹介しましょう。

 ひとつの方法は、習慣化です。なにかをするのに判断が必要なのは、それが特別なことだからです。お風呂に入るのは作業としては面倒な手順を含みますが、いちいち決断はいりません。習慣として、いわば惰性でやれてしまいます。習慣化された行動は判断を回避していますから、価値やインパクトの判断にも影響されにくく、そのために時間割引の影響を受けにくくなります。「一駅分歩く」のが運動不足の解消につながりやすいのは、これが理由です。

 もうひとつの方法は、目的を細分化し、締め切りを近くに置くことです。本来の締め切りよりもずっと早い時期に、本来の目的よりもずっと小さな目標の締め切りを置くのです。宿題が100ページあり、提出が50日先なのなら、10日先に、20ページ分の締め切りを設定します。時間割引の効果を逆手にとれますので、遅くとも9日目にはソワソワすることができるでしょう。後は、これを繰り返します。もちろん、毎日2ページにすれば、一つ目の習慣化の力も利用できます。

 結局は毎日コツコツだって? できるならとっくにやってます。

 その通り。この程度のことは誰でも知っています。しかし、大抵の人は、締め切りの力を有効に使い損ねています。なぜなら、自分で設定した締め切りに、本来の締め切りがもつ「守らなかったら大変なことになる」という特徴を付け忘れているからです。本当に達成したい目標があるなら、自分で設定する締め切りにも、守れなかったときのペナルティを用意しましょう。あなたに絶対に失望させたくない大切な誰かがいるのなら、その人に目標を宣言するだけでもいいかもしれません。重要な相手からは高く評価されていたいという、これまたヒトにとって強力な動機を利用するわけです。目標を達成できなかったら、友達三人に晩ご飯をおごると約束するのはどうでしょう。楽しすぎますかね。大嫌いな人や団体に、その分のオカネを寄付すると決めるほうが効くかもしれません。これなら、考えただけでぞっとしますよね?

P.スティール ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか CCCメディアハウス

H.G.ハルバーソン やってのける:意志力を使わずに自分を動かす 大和書房