成瀬仁蔵とジョン・デューイ‐臨床心理学的視点からの比較 ②
デューイの履歴を見てみると、ジョン・ホプキンス大学大学院で心理学者スタンレー・ホールに学び、博士号を取得したあと、ずっと大学の教員をしています。アメリカ心理学会会長に就任したり、コロンビア大学に移り哲学教授に就任したりと、デューイは生涯、研究者であったと言えます。
一方で、成瀬は、17歳から1年間しか教員養成学校にいませんでした。19歳で澤山保羅(キリスト教牧師、教育者)と出会って、魂のふれあう体験をして、人生を考えます。その後、20歳の時に梅花女学校が開校されて、そこでしばらく主任教師をします。キリスト教の伝道に専念する時期もありました。その後、アメリカに留学、アンドーヴァー神学校に入学、社会学者タッカーに師事、その後クラーク大学で主として女子教育を研究します。このときにウィリアム・ジェイムス(米国心理学の祖。機能主義心理学やプラグマティズムで有名な心理学者、哲学者)に出会い、大きな影響を受けています。1893年にA Modern Paul in Japanを出版。帰国後、1894年には梅花女学校校長に就任、そして1901年、日本女子大学を創設します。成瀬は自分自身で、自分は学者ではなく、女子教導者である、という趣旨のことを言っています。つまり成瀬は実践家であり教育者であり、社会改革者であったわけです。
デューイと成瀬を比較すると、教育に従事するようになったのは、成瀬の方が早いです。デューイは、1896年に「実験学校(Laboratory School)」を作ります。このときデューイは心理学者として観察者に徹していましたので、成瀬の姿勢とは大きく異なっていることがわかります。そしてデューイは、3年後の1899年に「学校と社会」を発表します。デューイは勉強家で、自分が使って役に立つものはどんどん取り入れて、本にして世に出した、いわば表現者だったと言えます。一方で成瀬は、社会改革者、伝道師、女子学生の魂に直接的に話しかける人だった、ということです。教育の重要性を伝え、いかに平和な社会をみんなの協力によって作り上げていくのかをしっかり熱を込めて語る、人生の達人であったのでしょう。
デューイは著書「Letters From China And Japan」のなかで、1919年2月17日に病床の成瀬を見舞ったときのことを、「The President, Mr. Naruseは、癌のため死の床にあったが、それでも彼は自然に話すことができた。」と記しています。研究者と伝道者というそれぞれの人生を歩んだ二人は、最後に何を語り合ったのでしょうか。
参考文献
- 塩路晶子 (1999)成瀬仁蔵の教育的関係に関する一考察:豊明幼稚園の実践を手がかりに、教育学論集 7(25)、 15-29
- John Dewey (著), Harriet Alice Chipman Dewey (著), Evelyn Dewey (編集)(1920)Letters From China And Japan, Kessinger Publishing (2010/9/10) ISBN-10: 1164183176