成瀬仁蔵とジョン・デューイ‐臨床心理学的視点からの比較 ①

執筆者:鵜養 美昭(元心理学科教員・日本女子大学名誉教授)
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成瀬仁蔵

 本学創立者の成瀬仁蔵とジョン・デューイ(心理学者、哲学者、社会学者)、この二人は二度対面しています。一度目は1912年に成瀬が米国を訪問した時、二度目はデューイが1919年に来日した時です。米国での一度目の対面では、帰一運動(宗教者同士の相互理解と協力を推進する運動)について話し合ったようです。日本での二度目の対面では、1919年2月17日に、日本女子大学をデューイが訪れ、病床にあった成瀬を見舞っています。その3日後には、日本女子大学豊明幼稚園・小学校を訪れ、さらに3月4日に成瀬が亡くなったため、告別式にも参加しています。

 本コラムでは、成瀬とデューイ、それぞれの人生の流れを、成育歴、環境を比較し、臨床心理学的な視点から心理的意味を考えてみます。

 まず成瀬仁蔵ですが、1858年、旧暦の6月23日、周防国吉敷村に生まれました。7歳のとき祖母、母を失っています。母と祖母という主要な女性、自分自身を育ててくれるはずの存在をわずか7歳で失い、成瀬少年はもっと自分のことを世話してもらいたかった、愛してもらいたかった、かまってもらいたかったという思いを痛感したことでしょう。7歳の少年にはものすごく大きな喪失感であったろうと想像できます。さらに16歳で弟と父を失っています。長州藩の下級武士の家でしたので、生育環境の文化としては「いさぎよく、しっかりと戦え」、といったようなものであったと思われますが、ここで成瀬は「一念発起」をせざるを得なくなります。心理的打撃になるようなショックを乗り越えるときの「一念発起」そして「自学自動」、つまり自分で自分を育てなければならない、ということになったわけです。自分が厳しい成育環境にあったからこそ、自分自身が本当はしてほしかった教育を自分ができるようになりたいと思い、そのような思いが成瀬を教育実践、伝道者の道へと駆り立てたのではないかと推察できます。

 それにくらべると、デューイの成育環境は恵まれています。当時の米国は野心とか希望に満ちた時代で、新世界として世界の覇者になろうとしていました。そういう国家的な野望のある、大きな気持ちを持つのがあたりまえという雰囲気の中で、デューイは食料品店経営者の家に生まれ、家族的に恵まれた環境で育ってきました。兄弟も多く、また二度の結婚で多くの子どもに恵まれ、家庭人として幸せでした。デューイと成瀬はずいぶん違う人生を歩んできたと思わざるを得ません。

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参考文献

  1. 塩路晶子 (1999)成瀬仁蔵の教育的関係に関する一考察:豊明幼稚園の実践を手がかりに、教育学論集 7(25)、 15-29
  2. John Dewey (著), Harriet Alice Chipman Dewey (著), Evelyn Dewey (編集)(1920)Letters From China And Japan, Kessinger Publishing (2010/9/10) ISBN-10: 1164183176