日本初の女性文学博士(Ph.D)原口鶴子:心理学の先駆者として ③

執筆者:本間道子(元心理学科教員・日本女子大学名誉教授)
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コロンビア大学・大学院ティーチャーズ・カレッジ校

 太平洋を渡り、西海岸バンクーバーで下船、そこから列車でニューヨークへの長旅(7月20日着)でした。当初からE.L.ソーンダイクの指導を願ってこの大学院ドクターコース入学の希望、それが9月に面接・資料審査を経て遂に叶ったのです。

 当時ティーチャーズ・カレッジ校は心理学においては新しい理論の展開、そして錚錚たる陣容で、アメリカ(すでにこのころにはドイツを超えたレベル)トップクラスの一つになっていました。まず教育心理学者として第一人者の名声高いソーンダイクの存在がありました。彼はそれまでの動物を介しての行動変容から人間(児童)を対象にしていました。彼女の学位授与時には、アメリカ心理学会会長にも。かれを中心に多彩な授業科目で、R.S.ウッドワース、J.M.キャテル、J. デューイ, H.L.ホーリングワースなどを受講(講義と演習)しています。はじめはゼミについていけないと嘆きつつも必死で取り組み、中では実践演習は具体的教育効果がわかり、興味をもって学んでいました。

 3年目には、博士論文の構想を練り始めました。迷った末、当時のソーンダイク研究室の関心テーマでもある‘知的作業と疲労による学習の効果’をテーマに実験に取り組みました。自らを実験対象者として課題を課し、その難易性と疲労からのデータを作成しました。そのころ、ソーンダイクは成瀬学長からの手紙に対して、原口をexcellent studentと最大級の評価を与え期待を寄せた返信を送っています。

 1912年春先、論文を完成させ、その後、厳しい面接を経て、6月、学位請求論文「Mental fatigue―心的作業と疲労」により、文学博士(Ph.D)の授与となりました。東洋の女性の授与は当時ニューヨークでも稀なことのようで、さらにはその日の午後の結婚式(新郎・原口竹次郎)も重なりメディアを賑わせました(休学も含み、5年間のニューヨーク生活、とくに博士号取得前後の話は帰国後の著『楽しき思い出』に詳しい)。その後この論文はアメリカ心理学会でも反響を呼び、学問的な真摯な追試がなされ、学会誌、専門書などで称賛・批判・反論・理論展開などが掲載されました。しかし当時はまだ「日本」の印象は薄く、背後に東洋(レイシズム)、女性(セクシズム)の影も垣間見えていました。

④へ続きます