日本初の女性文学博士(Ph.D)原口鶴子:心理学の先駆者として ②

執筆者:本間道子(元心理学科教員・日本女子大学名誉教授)
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日本女子大学校時代

 原口鶴子は1886年(明治19年)6月18日、現在の群馬県富岡市に生まれました。父親自身が学究肌であるとともに子どもに対しても、教育はその人に備わった財産と、男女の区別なく育成に熱心でありました(後のアメリカ留学資金や精神的サポートでは大きな影響)。そして彼女自身の知的好奇心、パーソナリティもあって自由闊達で進取の気象に富む自律的女性に成長していきました。地元の女学校を飛び級で、16歳で日本女子大学(当時は大学校)の予科に編入、大学創立2年目であり、翌年大学英文科に進学します。 

 学科を超えてさまざまな科目を受講するなかで、徐々に心理学関係科目に興味が移り、その中でも、松本亦太郎との出会いは、のちの進路を決定するものとなりました。彼は当時アメリカ、イエール大学で研鑽を積んだ後、東京帝国大学に赴任(ここに日本初の心理学実験室を設立)しました。彼は一時期(1903-1906)本学の教授でもありました。奇しくも、原口の在学時で、授業(「実験心理学」)に深い関心をもって積極的に授業に関わっていきます(後に松本先生はそれらを記憶に残し、原口の著書の巻頭文としています)。

 また成瀬学長による心理学の理論展開、研究知見は機会をみては講演・訓示などで学生らに直接、披露していました(こういった心理学への造詣の深さは、今も「成瀬仁蔵記念館」に保存されている心理関係蔵書の多さ、そして書き込みからも推察できます)。原口はこのように心理学の可能性を広げその思索とともに自分のライフ・テーマとして育んでいったのです。

 身近にこのような2人の薫陶を得て、原口の心理学への関心はさらに深まり、彼らがアメリカで心理学を学んだことで、自身も留学を強く意識することに。そし卒業翌年、麻生先生の留学経験と助言を得て、同じティーチャーズ・カレッジ校を目指して、横浜港を出港(6月29日)、22歳になったばかりでした。

③へ続きます