誰かを見殺しにする理由とは トロッコ問題に対する反応の文化差
トロッコ問題を知っているでしょうか。倫理学、経済学、心理学などで幅広く扱われている思考実験です。細かな点を省くと、こんな問題です。少し、真剣に考えてみてください。
暴走している列車があります。そのレールの先には、人が五人いて、このままだとひかれてしまいます。レールにはポイントがあり、それを切り替えると待避線に列車を入れることができます。待避線の先にも人はいて、やはりひかれてしまいますが、一人だけです。こんなとき、ポイントを切り替えるのは道徳的に正しいでしょうか。こんな場面に出くわしたら、あなたはポイントを切り替えるでしょうか。
トロッコ問題に対する回答には、文化差(日米差)があることが知られています。もう少し正確に言うと、どちらが道徳的に正しいかと聞かれたときには文化差はないのですが、実際にどうするかと聞かれたときには文化差が見られるのです。日本人はどうかと言いますと、少なくともアメリカ人と比較したときには、「切り替えない」という回答が多くなることが知られています。
なぜでしょうか。この問題について研究を行った社会心理学者たちの考え方を短く紹介すると、それは何かしたときよりも、何もしなかったときのほうが、周囲の人から非難されにくいから、となります。ポイントを切り替えるという選択は、作為的(意図的)に一人を犠牲者として選ぶ行為になります。ポイントを切り替えなければ、犠牲者は増えますが、作為はありません。刑法での扱いでもそうですが、誰かに被害を与えてしまったときには、その行為が作為的であるほうが非難されやすくなります。作為的に何かをしたときには、その行為に当人の考えが反映されていると思われがちですし、理由を説明するように求められます。一方で、誰かが何もしなかった理由は無数にありますし、釈明もしやすいはずです。
しかし、作為のほうが非難されやすいのは、日本に限ったことではありません(日本の刑法が、どこの国を参考にして作られたか、社会科の授業で習いましたよね)。それでも行動に差が出るのは、日本人が、アメリカ人よりも誰かから悪く言われること、つまり「悪い評判」が立つことを避けようとする傾向が強いからです。逆に、アメリカ人は悪い評判を避けることよりも、良い評判を得ることを求める傾向が、日本人よりも強いことがわかっています。
「人に迷惑をかけないように」という言葉は、子どものころから何度も聞かされてきませんでしたか。逆に、「正しいことをしなさい」と言われることはずっと少なかったでしょう。これは、世界的に普遍の価値観の姿ではありません。日本だけの価値観でももちろんありませんが、少なくとも日米で比較したときには日本的でより強い価値観になります。
こうした価値観がある社会では、作為をもって一人を犠牲にする人間だと周囲にはっきり示してしまうことのリスクが大きくなります。犠牲者がより多かったとしても、たとえそれを正しいと感じていなかったとしても、様々な解釈(あるいは言い訳)の余地がある「なにもしない」という選択のほうがとりやすくなるわけです。
では、なぜ価値観にそうした差があるのでしょうか。1つの説として、関係流動性という人間関係の特徴があげられています。それがどのようなものなのか、なぜ価値観に影響していると考えられるのかは、紹介した論文を読んでみてください。納得できるでしょうか。納得できないなら、それがあなたの研究の種になるかもしれません。
M.サンデル これからの「正義」の話をしよう 早川書房
山本翔子・結城雅樹 (2019). トロッコ問題への反応の文化差はどこから来るのか?関係流動性と評判期待の役割に関する国際比較研究 社会心理学研究 第35巻第2号, 61-71.